第1話:戦前と戦後、及び分断期のCarl Zeiss Jena・・

🅰

ひと言に「Carl Zeiss Jena (カールツァイス・イエナ)」と言っても、実は戦前ドイツでのCarl Zeiss Jenaを指す話なのか、戦後に旧東西ドイツに国が分断されてしまっている中での話なのか、この区別を最初に固定しないまま語ると、途中で話の対象が入れ替わってしまいます。つまり「Carl Zeiss Jena (戦前)」と「Carl Zeiss Jena (旧東ドイツ時代)」さらに「Carl Zeiss (旧西ドイツ時代)」そして1990年10月3日以降の「Carl Zeiss (再統一後の現在のドイツ)」と言う4つの認識が存在する光学メーカー名であることを知る必要があります。この時、4つめの旧東西ドイツ再統一後の「Carl Zeiss」には、旧東ドイツの「Carl Zeiss Jena」が吸収合併されています。

多くの場合で「Carl Zeiss Jena」を語る時、戦前を指しているのか旧東ドイツ時代なのかの別は、残念ながらちゃんと明確化して語られないことが多く、読者は文脈で判断するしかない状態になっています。

またそれら詳細を知っている人の中には、旧東ドイツ時代の「Carl Zeiss Jena」を指して単に「DDR」或いは「Carl Zeiss Jena DDR」と表記する場合もあります。その一方で旧西ドイツ側「Carl Zeiss」を指して「oberkochen (オーバーコッヘン)」と表記する人もいます (oberkochenは旧西ドイツ南部のシュトゥットガルトにある市です)。それぞれでちゃんと意味がある表記、或いは使い方なのですが、実はこれらの表現は「オールドレンズの範疇に限定してのみ語っている前提に見える」ことが多いのではないかと思っています。

↑上に挙げたのは戦前のCael Zeiss Jenaから始まるコーポレートロゴの変遷です。

CARL ZEISS JENA (創業以来):1904 ~ 
ZEISS IKON (財団時代):1920 ~ 
ZEISS OPTON (西ドイツ側):1953 ~ 
ZEISS OPTON West Germany (西ドイツ側):1971 ~ 
aus JENA (東ドイツ側):1975 ~ 
ZEISS (東西ドイツ再統一後):1991 ~ 
ZEISS (現在):1997 ~ 

のロゴ形状は、Tessar型後群形状を模しており、のロゴ下部は前玉を、それぞれ模しています。「aus JENA」のausは「from」と訳され「~製」の意味合いです。

確かにこの当時のオールドレンズの中で「CARL ZEISS JENA DDR」と鏡胴に赤色で刻印してある個体が今も市場流通しています。しかし実は全ての旧東ドイツ時代に生産されていた「Carl Zeiss Jena」製オールドレンズの個体に、必ずその同じ鏡胴刻印が残されていたワケではないのです。実際、今現在も市場流通している「Carl Zeiss Jena」製オールドレンズの個体の多くは、刻印があったりなかったりバラバラです。さらに鏡胴刻印ではなく、そもそもレンズ銘板のブランド銘刻印が「Carl Zeiss Jena」ではなく「CARL ZEISS JENA DDR」或いは「aus JENA」や「C. Z. Jena」だったりする個体まで流れています。すると今度は「時代とともに呼称が変わっていった」と説明して済ませてしまっているサイトまで現れます。このような現状の背景から「何だかよく分からないが、きっと旧東ドイツ時代の個体だろう」との受け取りで認識されている話だったりします。ただしモデルバリエーションまで辿れば、旧東ドイツ時代の「Carl Zeiss Jena」製オールドレンズに該当することは確認できます。

先ずは、ネット上で頻繁に語られている「旧東ドイツ時代のCarl Zeiss Jenaの歴史の話」以前に、そもそも今ここに前述してきた話の認識が正しいのか、或いは適切な表記として通用すべき範疇が適合しているのかについて、理解を深める必要があるのではないかと考えるのです。

戦前戦後の、或いは旧東西ドイツ内での「Carl Zeiss Jena」や「Carl Zeiss」の光学メーカー銘の違いや歴史にその変遷を語るのは・・・・実はそれからの話になるべきだと当方は考えています。
(多くのサイトでそれを蔑ろにし続けているから、ちゃんとした理解が促されていない)

特に今ドキのサクッと説明を進めるサイトの定型フォーマットにハマると、余計にそのようなパターン化が流行り、あっという間に結論として「まとめ」に仕上げられてしまっているように印象されますね。そのように考えると、日本国内の簡素な解説に比べて、英語圏での研究を尽くした説明サイトには敬服せざるを得ません。

当方が皆さんに伝えたいのは、敗戦国である日本とニッポン人が「もとは一つだったはずの国が分断される時代」を体験していないという事実を出発点に、同じ敗戦国のドイツを比較対象として扱うことで、旧東西ドイツに分割されてしまったCarl Zeiss Jena (カール・ツァイス・イエナ) の境遇を、できるだけドイツ側 (ドイツ人) の感覚に近い立場から、捉え直そうとする意識です。そこには、単に敗戦を契機として2つに分かれた「別々の発展」として軽く扱われがちな「現在のネット上の説明状況への危惧」があり、Carl Zeiss Jenaという1つの光学メーカーが、時代と体制に翻弄され続けた事実を追いながら、それを皆さんに認知してもらいたいという願いが含まれています。

だから当方は先ずは戦前から入り、戦時下と敗戦の次に現れた東西分断期を重視し、占領統治という前提がどのように国家体制の差を生み、その差がCarl Zeiss Jenaの戦後の歩みを東西で性格の異なるものへ導いていったのかを辿ろうとしています。その過程で示される付随的な説明は、決して寄り道ではなく、必須の前提説明であり、日本国内での多数の光学メーカーが置かれていた戦後環境とは、まるで次元が異なる条件下に晒されていたことを、皆さんに具体的に理解して頂きたいからこそ踏み込んで説明しています。つまりこの記事は、他国や日本のオールドレンズと同じ感覚のままCarl Zeiss Jenaを見てしまうと言う「理解の仕方」に対し、警鐘を鳴らし、そこで生きた人々の重みと葛藤を、歴史の事実として伝えるための導入として位置づけているのです。

Carl Zeiss JenaとZeiss Ikonの成立 ― 産業光学とカメラ産業の合流 ―

19世紀後半から20世紀初頭にかけてのCarl Zeiss Jena (カール・ツァイス・イエナ) は、顕微鏡を核とする精密光学の領域で存在感を強め、その中でCarl Zeiss Jena社内の中核人物であり、後に共同経営者へ移行した立場であったErnst Karl Abbe (エルンスト・カール・アッベ) と、社外の立場ではあったが、Carl Zeiss Jenaと密接に結び付いた硝材メーカーを創設した人物であるOtto Schott (オットー・ショット) によって光学を科学的基盤へ引き上げ、硝材と設計理論を含む一体の生産体系を成立させたことで、ドイツの光学産業における中枢的な立ち位置を獲得していきます。

一方で20世紀初頭のドイツでは、カメラ産業そのものが乱立から集約へ向かう圧力を受け、Dresden (ドレスデン) 市を中心に活動していたIca (イカ) や Ernemann (エルネマン) に加えて、C.P.Görz (ゲルツ) やContessa-Nettel (コンテッサ・ネッテル) といった有力カメラメーカーが競合しつつも統合へ向かい、1926年にこの4社が合併してZeiss Ikon (ツァイス・イコン) が成立しました。ここで成立したのは単なる企業合同や協業体組織の位置付ではなく、産業光学が積み上げた「理論と硝材の体系」が、一人の組み立て技師に頼らない、カメラ製造の量産体系とブランド体系の両側面に結び付いた、工業史の一つの節目にあたると当方はみています。

1920年 ~ 1945年の変化 ― 統合後の拡大と戦時体制への移行 ―

1926年にZeiss Ikonが成立した後、Carl Zeiss Jena側の資本と光学部品供給はZeiss Ikonの製品体系に強く結びつき、カメラ製造側は統合企業体としての規模とブランド力を獲得しながら展開していきます。しかし1933年以降はドイツ全体が国家の戦時体制へ傾き、Carl Zeiss Foundation (カール・ツァイス財団) の運用までも、国家権力の要求に適応せざるを得ない形で変質していき、第二次大戦末期にはZeiss IkonとCarl Zeiss Jena双方の拠点が空襲と戦局の影響下に置かれ、1945年の敗戦と占領によって、ついに次の時代である「東西分断と体制の分岐」へ移っていきます。

ドイツ敗戦と占領統治 ― 分断が制度化されていく経緯 ―

第二次世界大戦の終結に伴い、ドイツは無条件降伏に至ります。ドイツ側の降伏文書は1945年5月8日にベルリンで署名され、同日付で効力を持つ形で戦闘終結が確定しました。その後、戦後ドイツは連合国による占領統治の対象となり、ドイツ全土は米国・英国・フランス・旧ソ連の4つの占領地域に分割され、ベルリンも同様に2分割 (各国占領統治は同様4分割) として分割管理される体制が取られます。ここで重要なのは分断が単なる行政上の線引きではなく、戦後処理の中心の仕組みとして占領統治が先にあり、その延長線上として、後に東西対立に発展転化していったという経緯です。この流れを掴まなければ、東西ドイツが最初から当然に国家だったかのような語り草に流れてしまい、当方が語りたい「人間 (両国民)」側の重みと葛藤が薄れてしまいます。

従って占領統治の体制は、戦後初期の協調統治が維持できなくなったことで「東西対立」へと発展します。1949年には西側占領地域で西ドイツが成立し、ソ連占領地域では東ドイツが成立する形で、旧東西ドイツの分断が制度的に確定しました。但しこの時点で国家になったかどうかは、その見方 (国際法・西ドイツ側の憲法解釈・東ドイツ側の国家観など) での扱いについて、その判断が割れ続けた点が重要になります。当方が執拗に気にしてきたのはまさにここで、国家という言い方が、そのまま確定や断定として扱われてしまう危険を感じたからに他なりません。国家と言い切る語り方が、実は占領統治を起点とする流れをボカし「もとは一つの国だった」というドイツ人の感覚面を軽く扱っているように見え、そのような処遇感覚に戸惑いを感じるのです。

国際法 (国際社会の実務) としては、国家としての承認は各国ごとに段階差があり、とりわけ西ドイツ側は1955年のいわゆるハルシュタイン・ドクトリン (Hallstein Doctrine) によって、東ドイツを国家として承認する国との国交を断つ方針を取り、東ドイツの国家承認を抑え込もうとしました。一方で1972年12月21日の基礎条約 (Grundlagenvertrag) は、2つのドイツ国家の関係を整える条約であり、東ドイツに対しては事実上の法的承認を与えたが、完全な法的承認ではない、という相反する解釈が同時に残ってしまいます。

当方がここで強調したいのは、条約や外交が進むこと自体よりも、その進み方が二重構造を抱えたままだったという点です。つまりこのような条約締結を以て、国家承認されたが如く語ってしまうことに、当時のドイツ人にとり何かしら葛藤があったのではないかと考えてしまうのです。その深層には「何故、分断されたまま認められてしまうのか」との忸怩たる思いです。体制の違いはあれど、そもそももとは同じドイツ人の一つの民族国家だったハズです。

この時、当方はいつも日本を想定した妄想に及びます。もしも日本が敗戦と同時に連合国に占領統治され、糸魚川を境に西日本国と東日本国とに分断されてしまっていたら、その期間が1989年までと言う44年間に及んでいた時、はたして当時も今も、どれだけのニッポン人がそのような境遇に違和感や不自然さを感じないでしょうか。しかも糸魚川を境に国境緩衝地帯が互いの武装警備兵を伴い設置されて、且つ東京都まで分断されていたとしたら、どのうよに受け入れられますか・・そういう話をしたいのです。

1973年の二重構造 ― 国連加盟と憲法解釈が同時に残したもの ―

そして1973年9月18日、東ドイツと西ドイツはついに国連加盟国として受け入れられており (認可されており)、国連加盟国=国際社会における国家としての地位が制度上成立した、という到達点が明確になります。先ずはここが1つのポイントになっています。旧東西ドイツにとり、史実の中で国家としての「扱い」が決定した瞬間ですが、当方はむしろその「扱い」を問題にしたいのです。

つまり、この国連加盟 (国際制度上の国家扱い) とは別に、西ドイツ国内では「東ドイツをどう扱うべきか」が憲法解釈の問題として争点化てしまい、連邦憲法裁判所で判断が示された点に当方は着目したのです。

背景としては、西ドイツ政府が1972年12月21日に東ドイツとの間で基礎条約を結び、関係正常化へ進めようとした一方で、西ドイツ基本法が前提としてきた「ドイツは一つ」という立場に矛盾しないのか、という論点が国内で衝突したことにあります。そのため条約 (政府の外交) が西ドイツ基本法に反しないのかを確認する作業が生じてしまい、その判断主体として連邦憲法裁判所が扱う形になりました。その結果、1973年7月31日の連邦憲法裁判所判断では、「ドイツ国 (東西ドイツを合わせた戦前の基のドイツ国を指す表現) は戦前ドイツとして法的連続性が残るが、国家機構として行為できない状態にある」との判断が示され、同時に西ドイツは「ドイツ国そのものではなく、戦前ドイツの一部として国家を代表する立場にある」とされました。さらにこの前提に基づき、東ドイツは西ドイツにとって「外国」ではなく、東西の境界は国際通念上の「国境」との認識として同一には扱えないという判断に至りました。

つまり、国連加盟によって国際制度面では国家として成立している一方で、西ドイツ国内の憲法解釈では戦前ドイツを基準にした枠組みが維持され、東ドイツを「外国」として扱わない立場が残った、という「二重構造」として理解できます。当方がこの判決に着目した理由は、そもそも西ドイツ側で争点として、国連加盟という同じ年のタイミングで議論されていた事実とともに、合わせて「憲法上でも1つのドイツ」との扱いだったことに、西ドイツ側国民の戦前ドイツという国家体の存在を、戦争を理由に決して切り分けられていなかった真実を垣間見たような気がしたからなのです。当時の東ドイツ国内でのこのような論争は、体制が揉み消してしまったのかも知れませんが、発見できていません。一方で西ドイツでこのような最高判断権威にまで論争が持ち込まれた事実に於いて、それは例え西ドイツ側国民の総意だったとしても「もとは同じ一つのドイツだったのだ」との本質、深層意識は、決して戦争や敗戦を理由にしても消えない、一つの民族意識の現れなのではないかとの自分なりの咀嚼があるのです。

先ずここで当方が指摘したいのは、このような視点や角度から、オールドレンズの一つの光学ブランドを扱い、解釈しようと試みた記事が、ネット上には存在しない点に意義があるのではないかと言う論点です。それを一番最初に申し上げておきたいと思います。

1989年11月9日 ― 壁が崩れた夜の緊迫と流血回避 ―

1989年11月9日、旧東ドイツ側で新しい渡航規制が発表されましたが、その運用開始時刻が不明確なまま情報が拡散し、市民がベルリン市内の複数の検問所へ集まり通行を認めるよう要求する事態が発生しました。この夜のベルリンでは、検問所に集まった群衆が押し寄せたことは事実ですが、少なくとも主要な経緯としては武装兵による鎮圧や発砲で突破したという形ではなく、命令系統が機能しない中で、現場の国境警備側が最終的に遮断を維持できず、バリケードが開かれた (開けた) ことで通行が発生した、という流れとして記録されています。但し、暴動や抵抗が一切なかったのか、完全に平穏だったのかと断定できる記録ではなく、少なくとも当夜の現場は大群衆による圧力と緊迫を伴っており、発砲命令が出なかった (出せなかった) ことが結果的に流血を回避したという状況です。その結果、ベルリンの壁の上に市民が登る場面や、壁をハンマーなどを使い削り破片を持ち帰る行為 (Mauerspechteと呼ばれる行動) が各種映像や報道として広まり、市民が壁を破壊している映像が流れた、という理解は史実として成立しています。

当方が『ベルリンの壁崩壊事件』に拘るのは、或る意味社会主義体制の象徴を示す壁が崩れたという事件性を語りたいからではありません。武装国境警備兵が発砲しなかったという事実に、東ドイツ国民が「周囲の資本主義世界の自由な匂い」を既に肌で感じ取り、体制との温度差を人間として受け止めてしまっていた実状が滲むからです。命令系統の破綻という偶然が重なったにしても、本来は武装鎮圧の大義になり得た状況でも発砲しなかった点にこそ、人間としての「尊厳 (価値)」に従ってしまった深層心理が漂っていたのではないかという当方の憶測があります。それを表した事件として当方は受け取っており、どのように体制で抑圧しようとも、根底には人としての自分の人生や家族の人生を考える真理しか存在しないことの、まさに歴史的『証し』だったのではないかとの受け取りなのです。特にテレビのニュースで収録映像を眺めていたので、とても強い印象として今も記憶の中に焼き付いているのです。一つの時代の終焉と言うタイミングに、自分も立ち会うことができたことに、何かしら他人事では終わらせてはいけない何かを感じ取っていたように、今考えると思い出されるのです。

1990年10月3日 ― 再統一という言葉が残す感覚 ―

この流れの延長で、1990年10月3日に旧東ドイツと旧西ドイツは互いのドイツ再統一が実現し、東西分断は制度上も解消されます。ここで当方が述べたいのは、ネット上で頻繁に語られている、制度としての「東ドイツの西ドイツへの編入」という捉え方です。実際に当時も今現在ですら当のドイツ人にすれば「東西ドイツ再統一」というコトバでしか表現されないことに、そこには「もとは一つのドイツだった」という感覚が必ず残っていることを、未だに理解していない人達により、今もネット上で語られていることに危惧を感じています。

これは実際の条約文章で、統一条約 (Einigungsvertrag) の条文中に「ドイツ民主共和国 (DDR) のドイツ連邦共和国 (BRD) への加入 (Beitritt)」という語が明記されており、さらに「加入が効力を持つ (Wirksamwerden des Beitritts)」という言い回しで手続が書かれています。つまり制度上も「編入」という語ではなく「加入」という語で規定されていたことになりますから、ネット上で語られ続け拡散が今もなお続く「東ドイツの西ドイツへの編入」との表現は、まるで不適切であることが明白なのです。

何故なら「編入」の場合はともすれば再統一後の従属関係や上下関係に汲みしやすく受け取られかねませんが「加入」の場合は、世界の条約から捉えた時の通念上「同格扱い」として統一された印象が強くなる為、このような文言のこだわりは、必ず条約や協定文章の作成に際しては非常に重要視されるべき要素だと、当方は捉えているからに他なりません。単なるコトバ上の帳尻合わせではないのです。そこにこそ「同一民族意識がとても強かったハズの、もとは一つのドイツだった」との深層心理は、戦争や敗戦、或いはその中で起きた様々な犯罪を別にして、必ず問われるべき要素だと当方は確信しているからなのです。それらの事柄と、このような意識とを並列に扱うこと自体が、そもそも間違っていると思いますね。だからこそ「編入」と表記してはイケナイのです。当方はあくまでも、史実や歴史に事件主体ではなく、そこに生きていた人々の意識や感覚にこそ、真実が隠されていると考えているのです。

DDRとGDR ― 通称と表記が生む認知のズレ ―

旧東ドイツはドイツ語ではドイツ民主共和国 (Deutsche Demokratische Republik) なので略語はDDRになりますが、これはドイツ語表記された時の通称です。一方でラテン語/英語表記では同じドイツ民主共和国にしてもGerman Democratic Republicなので、その場合の通称はGDRになります。ここで当方が述べたいのは、DDR/GDRという表記が輸出や刻印で使われていたという事実それ自体が、当時すでに旧東ドイツが国家として承認されていたかのような誤解に直結しやすい、という点です。 当方は、国家承認の有無や法的地位の問題とは切り離して、輸出刻印としてDDR/GDRが使われた事実だけが先に独り歩きし、今現在のネット上解説で「国家として当然に成立していた」という扱いへ、短絡されていることに危惧を感じています。これらの通称や表記は、あくまでも実務レベルでの便宜上の扱いにすぎず、決して国家認証を決定づけていた事実の表れではないのです。この点について、ネット上での扱い方に違和感を覚えますね。

輸出表記の問題 ― 刻印義務と商標紛争が重なった結果 ―

ここで国外輸出の実務を考えてみます。当時の国際輸出入管理法 (正式名称は外国為替及び外国貿易法/いわゆる外為法) の法律では、製造国名を製品にラテン語/英語で表記する義務を課す、とされていました。いわゆる「LENS MADE IN どこそこ」という刻印が、様々な製品に今も残る理由の一つです。するとCARL ZEISS JENA DDRという表記はドイツ語表記であり、輸出製品としての表記義務と噛み合わない局面が生じ得ます。そのため旧東ドイツから輸出される製品はCARL ZEISS JENA GDRという表記になりますが、調べてみるとリアルな現実として、現在の流通市場での「GDR表記の個体数」が圧倒的に少ない事実に遭遇します。ここで当方が問いたいのは、刻印表記の差ではなく「輸出の扱いそのものが、工場単独で自由に決められる状態ではなかった」という点です。

実際にこの時期のCarl Zeiss Jenaは、1953年の時点で、海外の代理店や輸入業者と直接に輸出契約を結びそのまま出荷する運用ができなくなり、輸出は国家側の対外貿易組織 (DIA) が契約と出荷の窓口を握る形へ移されたことが記録されています。この点は少なくともドイツ特許商標庁 (DPMA: Deutsches Patent- und Markenamt) の公開解説では1953年春以降の出来事として扱われ、さらに1953年6月23日の時点でDIAがZeiss Jenaに関与している記録も確認できます。従ってDIA経由の運用は、1953年6月頃には始まっていたと扱うことができます。

さらに同年、Carl Zeissの商標権が東西ドイツ双方で争点となり、商標権の扱いは約18年の審理を経て、1971年4月のロンドン合意 (東西のCarl Zeissが商標権紛争を終結させるために結んだ取り決め) で政治圏ごとに運用を分ける形で整理されます。この合意では、Carl Zeiss OberkochenとVEB Carl Zeiss Jenaが世界を東西の半球に分け、それぞれ相手側の半球ではCARL ZEISSブランドを使わないことが規定されました。

この合意の結果として、西側市場ではJena側が「aus Jena」表記を用いる運用が成立します。つまり「英語表記義務」だけでGDR刻印へ統一される道理が通用しなくなったことが、この時代の実務として影響を受けたことが窺えます。

当方がここで指摘したいのは、流通市場で「GDR」刻印が圧倒的に少ない一方で「CARL ZEISS JENA DDR」と「aus JENA」がどちらも多く見える、という現実です。この分布から見える当時の現実的だった輸出運用は、東欧圏 (社会主義圏) には「CARL ZEISS JENA DDR」刻印の個体が広く流通し、西欧圏 (西側市場) には「aus JENA」表記の個体が流通した結果として「GDR」刻印だけが相対的に少なく見える、という形だった可能性です。一方東欧圏への西ドイツ側Carl Zeiss製品の流通は、ZEISS OPTONを使っていたと推定できます。

ここまで戦前から戦後を経て東西ドイツ分断期を探索してきましたが、ここで再び旧東ドイツ時代に於ける、Carl Zeiss Jenaの状況にフォーカスしたいと思います。それは社会主義体制を知らない私達ニッポン人が、この時代のCarl Zeiss Jenaが置かれていた環境を正しく理解する為に必要な説明であり、さらに旧東ドイツ国内で通用していた体制の運用の中で、どうしてネット上やwikiですら語り続けている「人民公社」との扱いとは違うのかについて、深く入り込んだ解説を試みることで、巷の認識を覆したいと思っているからです

旧東ドイツに於ける1948年以降の企業制度 ― VEBとVVBの確認 ―

1948年以降の旧東ドイツでは、国有化された企業はまずVEB (Volkseigener Betrieb: 人民所有企業) と呼称し、計画経済における最小単位の企業体として扱われ、個人経営 (私企業) を含まないものとして再編されました。さらに複数のVEBを産業分野ごとに束ねる中間管理単位も用意され、VVB (Vereinigung Volkseigener Betriebe: 人民所有企業連合体) と呼称し、分野別に複数のVEBを束ねて統括する立場となる管理企業が設けられました。なおVVBという呼称は、1948年に導入された後、1952年にいったん廃止され、その後1958年に再度設置されたため、同じVVBという略称が「初期段階」と「再設置後段階」の両方で現れるという不明瞭さが実際に残っています。

Carl Zeiss Jenaは1948年7月1日に国有化され、VEB Carl Zeiss Jenaとして位置づけられました。この同時期にVVB Optik (Optik: 光学分野のVEBを統括するVVB) が設けられ、初期段階では「VEB Carl Zeiss Jenaの工場長が、VVB Optikの長も兼ねた」と記録されています。

Kombinatへの改組 ― 光学産業が集合体になっていく過程 ―

企業統合の制度段階としては、1965年1月1日にVEB Carl Zeiss JenaがKombinat (コンビナート:複数のVEBを束ねて一体運用する企業連合体を指し、分野内で生産・研究開発・資材配分・生産調整を統合して運用管理するポジショニング) へ改組されます。ここで重要なのは、この改組によりCarl Zeiss Jenaがレンズ単体のメーカーではなく、周辺の光学機器メーカーを編入しながら規模を拡大していく、制度側の中核へと移った点です。つまりCarl Zeiss JenaはKombinat運営の中心となる母体として位置づけられたことを表しています。それは自身の上位に「光学精密機械局」という省庁が位置している点からも一目瞭然です。この編入と統合の流れはその後も続き、例えば戦前には肩を並べていたMeyer-Optik Görlitzですら、戦後には単一VEBとして運用され、1968年にはPENTACONに編入され、そして最終的にはそのPENTACONさえ、1985年1月1日にCarl Zeiss Jenaへ組み込まれてしまいます。つまり東ドイツ国内の主要光学メーカーは、Carl Zeiss Jena1社のみしか存在しない状況と環境に至っていたことが推察できるのです。

そこから指摘できるのは、東ドイツの光学産業が、分野内の企業が互いに競争していく方向ではなく、計画経済の中で統合と編入を重ねながら巨大化していく方向へ収束していき、Carl Zeiss Jenaはその中心として肥大化していった、という流れがこの制度史から読み取られるのです。

Carl Zeiss Jenaの生産体制と製造番号の関係 ― 製造番号の混在 ―

前述のとおり、戦後の分断によりCarl Zeiss Jenaは旧東ドイツ側に位置づけられ、1948年7月に国有化されてVEB Carl Zeiss Jenaに改められ、光学分野の人民所有企業 (VEB) をまとめて運用する上位組織としてVVB Optikが設立されたことで、Jena単体の判断だけで生産計画や生産量を決めるのではなく、上位側で決められた計画に従って生産を割り当てられる体制へ移っていったことが確認できています。つまり旧東ドイツのVEBに組み込まれたことで、自社の配慮次第で生産をコントロールできる時代が終わったことを表していると受け取られるのです。これは戦前の環境とは大きく変革したことを意味し、同じことが旧東ドイツの全ての企業に該当していたことを理解する必要があります。

この時、話をオールドレンズのほうに向けると、オールドレンズの製造番号をシリアル値に則り並べた時、市場流通個体の製造番号が前後に混在して見える現象は、個体が生産ライン上で一貫してユニークな番号を保持し続けた結果ではないことに繋がらざるを得ないと結論づけできます。まず何を何本作るかという生産計画が先に決まり、その計画に基づいて製造番号の番号帯が事前に確保される「製造番号事前割当制度」が成立していたと捉えています。同時に生産ライン側では、別系統に並行的にロット管理番号が工程管理として付与されていたと考えます。そして最終検査を通過した個体に対して、出荷直前に製造番号刻印のレンズ銘板が確定・装着され、その時点でロット管理と製造番号が紐づけされて内部に保存されていた、という運用で説明できると考えられます。

この「製造番号事前割当制度」とは、生産開始より前の段階で「このモデルをこの本数だけ市場へ出す」という決定が先に確定し、その決定に合わせて製造番号の番号帯がブロックとして先に確保されるという定義になります。

生産ラインが実際に必要とする管理単位は製造番号ではなく工程管理であり、この工程管理の単位がロット管理番号で、製造番号とは別系統で「どの工程でどのまとまりが動いているか」を追う目的で付与されるという定義です。

この二系統が併走する場合、個体は工程中ではロット管理番号で扱われ、最終検査を通過した時点で初めて「出荷可能な製品」として個体が確定し、その確定に合わせて用意されていたレンズ銘板が装着されて製造番号が個体へ固定されるため、製造番号は生産中の個体識別というより出荷個体の確定作業として付与されるという流れになります。

この流れが成立する理由は、検査不合格や手戻りが工程内で発生し得る以上、工程中に製造番号を固定すると欠番や再投入が連鎖し、外部に見える番号列を安定させる目的と衝突し得るためです。

需要と供給のバランスを制御するなら、必要数を適時供給するという計画生産の要求が強いほど、単一工場だけで完結させず複数工場を並行運用して同一製品を同時期に生産する局面が生じ得るため、この時点で「同一番号帯の中に、工場Aのロットと工場Bのロットが並んで存在する」状態が発生します。さらに各工場では、ロットごとに進捗 (組立 → 調整 → 検査) が異なり、検査合格の順番も揃いません。加えて出荷は「完成した順に一定本数ずつまとめて出荷」する運用になる為、レンズ銘板の装着もその出荷単位で行われます。結果として、番号帯としては同じ範囲に属していても、市場へ出る順番は「必ずしも番号の小さい順のシリアル値を執らず」短期的には製造番号の前後が入り乱れて見えるものの、長期スパンで眺めれば「番号帯の集約性が痕跡として残る」結果として、要は市場で観測される製造番号には「短期の混在」と「長期の集約化」が同時に現れるというパターンへ帰結すると説明できるのです。

複数工場並行生産」とは、同一モデルを常時どの工場でも互いに作り続けるという意味ではなく、ロット計画の都度、必要な局面でのみ複数工場へ同一モデルのロットが配分され、ある期間に限って同一モデルの並行生産が発生するという定義になるのです。つまりここまでの解説と定義から「製造番号事前割当制度」と、様々な光学機器メーカーを吸収合併しながら、それら企業の工場設備を有効活用すべく「複数工場並行生産体制」の両方を、同時進行でコントロールしていた運用面での実際がみえてくるのです。Carl Zeiss Jenaの立場とは、そういうポジショニングだったと理解できるのです。

旧ソ連の計画経済 ― 旧東ドイツへ影響した制度体系 ―

旧ソ連 (USSR:ソビエト社会主義共和国連邦) は共産党による一党支配を基軸とする社会主義国家として組織され、国家が生産手段 (工業・農業・資源など) を直接管理し、経済活動を市場競争ではなく国家計画によって統制する体制を採用しました。この体制の思想的背景としては、Karl Marx (カール・マルクス) による資本主義批判と階級闘争の理論があり、資本家階級による生産手段の私有が格差と搾取を生むという認識のもと、生産手段を社会 (国家) が掌握して分配を制御する、という方向性が掲げられました。

制度面で言い換えると、国民に認められる私有財産は生活維持のための最低限 (個人の生活用品など) へ収縮させ、工場・資源・大規な模土地や企業などの主要資産は、その全てが国家 (社会) の所有とすることで、個別の所有者に集中していた生産物の利益/利潤と資源配分の決定権を、国家へ回収し、その生産物・資源・労働成果を社会全体へ「再分配する」という発想とそのシステム (体系) になります。ここでいうマルクス主義は、資本主義の次に社会主義 (生産手段の社会的所有を基礎にした移行段階) を置き、その先に共産主義 (階級と国家が不要になる段階) を理論上の到達点として置く枠組みです。旧ソ連が自らを社会主義国家と呼びつつも共産党が統治したのは、到達点としての共産主義体制そのものを既に実現したという意味ではなく、共産主義を最終目標として掲げ、その移行段階を指導する政治主体として共産党を置く、という構造だったためだと理解できるのです。

旧ソ連で計画経済が制度として確立していく前提には、十月革命 (1917) と内戦期 (1917年~1922年) に生じた深刻な経済崩壊があり、国家が生産と配分を統制しなければ社会と産業の維持が困難になったという、当時の事情が存在します。この段階では、市場の自律的な回復を待つよりも国家が一定期間の生産目標と資源配分を先に決め、それを遂行する形で復旧を進める必要が生じたため、計画経済という考え方が制度として採用されていきます。計画期間が「5年」を単位として設定されたのは、産業設備の整備や生産量の引き上げを年度単位ではなく複数年単位で積み上げて管理する必要があったためで、短期の帳尻合わせではなく中期の達成目標を固定する運用として採用されたものです。

この計画を立案し運用するための国家機構として、1921年2月22日に国家計画委員会 (Gosplan) が設置されました。Gosplanの設置によって、国家主導で経済計画を立案・運用する仕組みが整備され、5カ年計画が政策運用の基本単位として採用されていきます。その結果、最初の五カ年計画は1928年に採択され、1929年~1933年を対象期間として実施されています。

このように「産業工業5カ年計画」を基本単位として運用していく一方で、計画の途中で頓挫する事例も確認できます。旧ソ連では第6次5カ年計画 (1956年~1960年) が途中で頓挫し、旧ソ連共産党の第21回党大会 (1959年1月27日~2月5日) で「1959年~1965年」を対象とする7年計画が採択された、という経緯が確認できています。

旧東ドイツの社会状況 ― 亡命と逃亡が止まらなかった理由 ―

戦後の旧東ドイツは、ソ連による占領統治を基盤として成立した国家体制であり、その初期段階から政治・経済の枠組みは、旧ソ連側の体制や制度と強く連動していました。このため、旧ソ連で運用されていた産業工業の体系は5か年計画が旧東ドイツ側にも適用され、旧ソ連側の計画期が7年計画に修正された際に、旧東ドイツ側でも同一期間として扱うよう修正されたことが確認できます。

しかしこの時期の旧東ドイツは、国家計画が機能して安定成長していたという局面ではなく、現実には生活物資の不足、住環境の欠乏、賃金と供給の不均衡、農業集団化に伴う混乱などが重なり、生活の不満が蓄積していく段階でした。1952年には旧東ドイツが西側との国境警備を強化し、国内の統制を強める方向へ移行しますが、それでもベルリン市だけは連合国占領統治の構造上、人の移動が完全に封鎖されず、東西ドイツ往来経路として残り続けました。その結果、1950年代後半にかけて旧東ドイツから西側への亡命・逃亡が急増し、熟練労働者や技術者を含む労働力流出が国家運営の弱体化として顕在化してきます。

1950年代後半から1961年にかけて、旧東ドイツ側から西側への流出が大規模に続き、とりわけベルリン経由での西側移動が主要な経路になっていました。こうした状況を遮断する目的で、旧東ドイツ側は1961年8月13日に境界封鎖を開始し、当初は鉄条網などで封鎖し、その後に壁構造物へと移行していきます。西ベルリンを囲む境界線の総延長は155kmとされ、うち西ベルリンの外周 (西ベルリンと旧東ドイツの境界線) は約112kmとされ、ベルリン市内の東西境界 (西ベルリンと東ベルリンの境界線) は約43kmとされます。その目的は、単なる人口移動の抑制ではなく、旧東ドイツ側から西側 (特に西ベルリン経由) へ流出していた大量の亡命・逃亡を遮断し、体制の安定と労働力維持を確保するための国境封鎖として説明できます。つまり鉄条網と封鎖壁に監視塔で武装国境警備兵が24時間監視し続けていたのは、外部からの進入や攻撃ではなく、自国民の逃亡・亡命を防ぐ手段だったのです。

人民公社との混線 ― VEBを人民公社と呼ぶ『誤認を止めたい ―

ネット上では旧東ドイツの企業体単位VEBを「人民公社」と呼称する傾向が今だに続き、それが拡散を招いていると当方は認識しており、この点について正しく理解できるようここで説明したいと思います。

人民公社は、中国に於ける1958年の「大躍進」と言う局面で成立した制度です。この「大躍進」とは、単なる状況描写ではなく、当時の中国で公式に用いられていた政策名 (運動名) であり、中国語では「大跃进」として掲げられました。この方針の下で、中国農村の生産と生活をより大きい単位に統合して運用する必要が生じたことを背景に、人民公社が形成されていきます。中国共産党の説明では工・農・商・学・兵の統合と、行政機構と公社の合体 (政社合一) が特徴として示されています。成立過程では1958年夏にかけて既存の農業生産組織 (合作社など) が大規模に統合され、巨大な単位としての公社が各地で形成されていきます。当時の人民公社は地域差を残しつつも一つの公社が数千世帯から数万世帯規模を包含する単位へ拡大していた、と説明できます。

発生の経緯としては、1958年に河南省遂平県で最初期の人民公社 (岈山衛星人民公社) が成立したこと、同年8月に毛沢東が河南省新郷県の七里営を視察した際に名称として人民公社を評価したこと、さらに同年8月の北戴河における中央政治局拡大会議で、農村に人民公社を建設する問題に関する中共中央決議が採択され、全国的推進が正式化したことが連続した流れとして記述されています。英語資料側では1958年6月に中国共産党中央委員会と毛沢東が人民公社という名称を選定し8月の会議で採択された、とする記述があり前述の情報とも整合しています。

体制としての人民公社は、農村における行政単位でもあり、特に青年を一箇所に集めた共同生活により集団化することで、生産・配給・労務そして兵力動員能力を一体で運用する枠組みとして機能したとされます。英語資料では1958年から1983年まで農村の最上位の行政レベルであり、1983年までに郷 (タウンシップ) へ置き換えられたと説明され、日本語資料側でも1958年の大躍進期に始まり1983年まで行われた制度として整理されており、辻褄が合っています。これらの流れを理解した時人民公社」という呼称が、旧東ドイツのVEBという企業制度に合致しないことは自明だと当方は考えます。従って当方は旧東ドイツの企業体の単位VEBを決して「人民公社」とは呼ばず、当時呼称されていた「人民所有企業」と表記し続けます (つまりwikiでの説明内容は適切ではないと当方は受け取っているのです)。

日本との比較 ― 降伏時の政府機能と占領統治 ―

またこの状況は同じ敗戦国の日本の状況に重ね合わせると、さらにその違いが明確に分かります。ドイツ敗戦は1945年5月7日の米英仏連合国軍との降伏文章調印、及び1945年5月9日旧ソ連軍との降伏文章調印によって決定し、一方の日本は1945年8月14日のポツダム宣言受諾 (玉音放送に拠る日本国民への周知徹底は翌日8月15日正午) です。

ここで着目すべきはたった一つしかありません「降伏時に政府が機能していたのかどうか」です。降伏文章調印はその次の話です。敗戦ドイツは無政府状態にあり機能していませんでした (あくまでも臨時政府が急遽用意されただけの話)。一方日本は戦時下にしても政府が正しく機能していた状況にあり、この差が「戦勝国にとっての戦後賠償問題の大きな格差を生んだ」というのが歴史的事実です。つまり互いに敗戦国ながら、同じように首都含め爆撃も受けており、国内の主だった産業工業経済面での打撃は計り知れなかったにしても、政府が機能していた点で日本の占領統治はドイツとはまるで違う趣きを成したと理解でき、即座に戦後賠償問題にとりかかれたのです。この結果、同じように分割統治を主張した旧ソ連を説得した米英仏によって米国単独に拠る占領統治が決まりました。これが日本が分断を免れた最大のポイントになっています!

要は敗戦時 (降伏時) に、政府が機能していたのかどうかが、同じ敗戦国ドイツとの決定的な相違点であり、次に戦後賠償問題に即座に進めたのかどうかが、実は分断の可否を左右したのだと指摘しても良いと受け取られるのです。そこには米英仏による次なる旧ソ連軍の南下政策に対する警戒感が強く現れており、それを逆にみるなら、むしろ大戦前の日本による旧ソ連南下政策への抵抗も、一つの材料として米英仏に既に受け入れられていたことの『証し』ではないかと、当方は捉えているのです。その意味で考えるなら、決して先の大戦も、まるで負け戦だけではなかったことが少なからず垣間見えてくるように思えるのです。つまり旧ソ連の南下政策に抗っていた日本の立場は、或る意味大戦前の米英仏の立場とも少しは一致が見出だせていたように考えるのですが、どうでしょうか。そうだとすれば、それは自分サイドとの受け取りになり、旧ソ連による日本の分断統治の提案を説得した道理にも、そのままに繋がっているようにみえるのです。歴史と史実の尺度は、このようにどのように捉えるのかで変わっていきますね。

戦後賠償と戦時賠償 ― 用語の趣旨としての差 ―

ちなみに戦時賠償は、戦争被害者 (個人や団体) に対する賠償問題 (戦争加害国が支払う補償や救済) を指すのであって「戦後賠償」とは趣旨が違います。これは特に戦後賠償を自ら政府自身が率先して行った同じ敗戦国の日本とは、戦後ドイツ、或いは再統一後のドイツはまるで違っており、正直な話、いまだにドイツは戦後賠償していません (一部団体に拠るユダヤ人問題での戦後賠償は顕在しますが、国としての戦後賠償は未実施なまま)。つまり一部の国が語っているように、戦後ドイツは既に謝罪したとの受け取りは、何を以てそれに資するべきかとの判断に拠ると考えられます。
そもそも戦後に国が分断されたことから国家としての戦後賠償未実施たる根拠にあて、且つその分断期の期間は前述のとおり戦後賠償を目的にしていたことを俎上に挙げて、必然的に戦後賠償にも資するとしたのが再統一後の現在のドイツの言い分です。占領統治下の期間で、互いの国での産業工業経済のあらゆる分野で戦後賠償が続けられてきたとすれば (実際、敗戦時の戦後賠償対価に比した時、ドイツ再統一時点の賠償額は既に5倍以上に達していた) と説明されることもありますが、当方の認識では十分戦後賠償の対価すら旧東西ドイツ国民から搾取していたことを否定できないのでないかとの受け取りです。

その意味で、一部の国が今現在も日本の戦後賠償問題の未実施/未完了を盾にして国連に申し立てている事実は、当方の認識では、論点の置き方として適切ではないと考えています (ドイツは既に謝罪したと言うが、それは決して戦後賠償の話にイコールではない)。これは日本の戦後賠償問題でも、終戦時の取り決めよりも多く支払っていると欧米諸国間で語られることがあります。しかし、当方の認識としては、戦後の旧東西ドイツ国民の話だけに限定せず、日本の国内でも、戦後処理の費用が長期にわたって国民負担として残ってきた面があると捉えています。実際中国にも韓国にも必要額全額を既に時の政府に対し支払い、賠償し終わっているにもかかわらず、さらにODA (政府開発援助) として別の手段で、それらの国々への継続支援を長年続けてきました。何と中国に対しては、2021年度末 (2022年3月) 時点で、ようやく全てのODAが完遂しています。もらうものは貰っていながら、その一方で謝罪や賠償を今もなお要求し続けるその姿勢に、既に話の次元は移行してしまっているように受け取られますね。日本は明確に「NO」と国際社会に宣言するべきです。

当方が言いたかった核心 ― もとは一つの国だったという苦渋 ―

ここまで書いてきた全ては、結局この一点へ収束します。当方が題材にしたいのは国家承認の事実でも独立国家としての扱いでもなく「もとは一つだった、ドイツ人の国ドイツ」という一点です。貿易や国連や外交や条約は、当方にとってはそれ自体が主役ではなく、その一点を皆様に体感させるために、どうしても避けられない具体例としてご紹介したにすぎません。

敗戦した罪は必ず史実としても残るのだと思います。しかし、罪があるからと言って国を奪われたままでは納得できないという気持ちが国民に残っていたことは、容易に察しがつくはずで、そこに着目しないままにCarl Zeiss Jenaを語ってしまっては、齟齬を生みかねないと思うのです。当方のその気持ちが、東西分断という言葉の背後にずっと隠れており、さらに同じドイツ人だったのに、一方はVEBの世界で資産形成の前提を奪われ、逃亡や亡命が起きていった事実があったこと。この連なりをただの歴史事実として扱ってしまうと、オールドレンズの刻印やブランド名を語る文章の中で、分断によって生じた制度上の差や生活条件の差が、いえ、もっと言えば国民たる人間としての奪われてしまった『尊厳』すら、説明文の中で扱われないままに見過ごされてしまう傾向に、当方の釈然としない思いが被さっているのです。

単なるオールドレンズの話なのかも知れませんが、ことCarl Zeiss Jenaという光学メーカーが歴史に翻弄されてきた事実は、せめてその真相を少しくらいは語っても良いのではないでしょうか。

オールドレンズのブランドを見る時、時にはそのような背景にまで思いを馳せる心根も、或る意味重要な局面もあるのではないかと思ったのです・・。

…………………………………………………………………………

なおこの記事内の内容には直接的には影響を及ぼしませんが、1945年のドイツ降伏時の中で、やはり特に注目すべき「Carl Zeiss Jenaの工場の状況」について述べたいと思います。

Carl Zeiss Jenaの工場施設群が建てられていた場所は、ベルリンの南西方向250kmに位置する、Thüringen (テューリンゲン) 州Jena市であり「Jena (イエーナではなくイエナです)」が地名であることを意味しています (つまりイエナのカールツァイスと言うのが名称)。

従って上のほうで解説した輸出時の制約の中で「aus JENA (アウス・イエナ)」が「イエナ製」を語るだけで、カール・ツァイス製を表していた根拠とも言えます。

そしてそのCarl Zeiss Jenaの工場施設群には工場の機械設備はもちろん、科学者や設計技師に職員や従業員、果ては「戦時徴用兵」とは名ばかりの、民間人労役者 (3,899人) などが住まう地域であり、凡そ当時の関係者総数は1万3千人程度と見積もられています。

そこに終戦間際のタイミングで米軍が侵攻してきます。ここからの解説はその米軍とCarl Zeiss Jenaの内情などを絡ませて述べていきたいと思います。

1945年4月11日、Carl Zeiss Jenaの工場施設群で警戒警報が鳴り響きます。
この時、Jena市の守備に当たっていたドイツ国防軍は米軍の接近を察知し、Jena市直前に位置するザーレ川東岸に防衛線を構築していました。さらにザーレ川を渡ってJena市に通ずる「イエナ橋」の爆破準備も整えており、進軍してくる米軍のJena市突入阻止の計画だったことが分かります。

ちなみにアドルフ・ヒトラー総統は「焦土作戦」を全軍に下命していた為、例
外なくCarl Zeiss Jenaの工場施設群も破壊命令が下されていました。それに対しCarl Zeiss Jenaの工場長、兼社長でもあるHeinz Kueppenbender (ハインツ・キュッペンベンダー) 博士は、事前にナチス政権の軍需生産大臣アルベルト・シュペーアとの良好な関係を利用して、特にCarl Zeiss Jena工場施設群と光学ガラスレンズ精製工場であるSHOTT社工場施設、及び目前のイエナ橋爆破命令阻止に奮闘していたようであり、まさに米軍侵攻、及びJena市突入1周間前と言う際どいタイミングまで、必死に努力していたことが窺えますが、実は左写真のとおり、既に主だった本社屋や工場群建物の多くは、爆撃の被害を被っており、とても稼働できる状況にはありませんでした。

1945年4月12日、ドイツ国防軍イエナ市守備隊によりザーレ川イエナ橋爆破。

1945年4月13日、米陸軍第4装甲師団と第80歩兵師団がミュルタール渓谷を経由して、ザーレ川の渡河に成功し、イエナ市街地に突入開始。ドイツ国防軍守備隊はイエナ市東部地域に押しやられ、僅か数時間で壊滅し降伏。米軍のイエナ市占領が始まる。

1945年4月19日、キュッペンベンダー氏により再建計画が立案想起される。
これは近い将来のドイツ敗戦を予期して、数カ月間に渡る工場再建計画を起草したものであり、そこには眼鏡レンズ、カメラレンズ、精密機械光学機器の3つの柱を生産の中心に据えた、研究所と設計事務所、管理部門、業務部門などへの新規採用従業員配置などまで含んだ壮大な計画だったようです。

またこの時、キュッペンベンダー氏は、1945年の秋までに双眼鏡やライフル用照準器、測距儀などの製品を米軍に納品するとした誓約書を提出することで確約したものの、実際の米軍占領期間中のCarl Zeiss Jena工場施設群の稼働は一切行われる状況になかったようです。

1945年4月20日、戦時徴用兵3,899人を開放。
この時の開放民間人の内訳は、ロシア(26.7%)、ベルギー(23.5%)、イタリア(8.8%)、オランダ(7.8%)、チェコスロバキア(4.7%)だったようですが、残り28.5%は主にユダヤ人の囚人だったことが後に判明しており、戦後の戦犯扱いを逃れることで再建計画を実行したいが為に、伏せられていた可能性が高いようです。

1945年6月10日、科学技術文書や特殊機器を搬出開始し、第45航空補給軍によって搬送スタート。

1945年6月11日~16日、さらに科学者と設計技師、及びその家族など1,500人以上をトラックに分乗させて移送開始。

1945年6月11日時点で、正式に米軍のイエナ市からの撤退命令が下令される。
この結果、キュッペンベンダー氏の工場再建計画は完全に頓挫します。ところが米陸軍第8師団は、既に19両の貨車に積載完了していた原ガラス材とガラス工場設備を工場に戻し始め、代わりに主要科学者(35人)、設計技師(20人)、を含む総数77人、及び重要文書を接収する命令を受託します。

1945年6月21日、米軍第12機甲師団が他に残っていた科学者や設計技師1,500人を検査開始。さらにツァイス工場従業員81名、SHOTT工場従業員41名他、イエナ大学の教授や講師、職員含む家族など500人なども1945年6月23日~25日の期間に全て移送し、ここにイエナ市からの米軍の完全撤退が完了します。
※但し、本人意志によって敢えて移送を拒否し、イエナ市に残った科学者や設計技師とその家族が相当数残っていたようです。

1945年7月1日、旧ソ連軍の将校2人がイエナ市を訪れ、市長に接見。以降旧ソ連軍に拠るCarl Zeiss Jena工場施設群とその機械設備にガラス原材料や必要人材まで含む、ほぼ全てをソ連本国に移送する接収作業が実施されました・・この接収を指して「デモンタージュ」と呼称します。

なお、米陸軍第8師団への命令が途中で変わった理由は、英国首相チャーチルと旧ソ連最高指導者スターリンによる取り決めにより、米軍占領地域とベルリン市の東西分割が交換条件として成立したことに起因するようです

結果、旧ソ連軍による接収後に、Carl Zeiss Jenaの工場施設群に残されていた設備は、凡そ10%にも満たなかったと言う熾烈極まる状況に至っています。

このような状況から旧東ドイツ内でのCarl Zeiss Jena再建がスタートしたワケで、何よりも4月に先にイエナ市に突入していた米軍によって、その後の旧西ドイツoberkochen (オーバーコッヘン) 市でのCari Zeiss創設と、さらに商標権裁判の勝訴を決定づける人材や重要文書の接収など、戦後秩序が決まる史実へと繋がったことが分かるのです(汗)

その意味で1945年4月11日~6月23日までの凡そ2ヶ月半に・・全ての歴史が動いたと言っても良いのかも知れません (但しあくまでもCarl Zeiss Jenaに纏わるストーリーだけの話ですが)。

ちなみに旧ソ連本国に移送されたCarl Zeiss Jenaの従業員が旧東ドイツに帰国できたのは、1950年代に入ってからなので、凡そ10年間前後の期間囚われの身になっていたことが分かります (もちろんそれは囚人扱いではなく技能労働者としての待遇を受けていた)。その意味では、捕虜として接収されていったドイツ人達の、その後の状況からすれば、多くの場合で人間的な扱いを受けていた立場だったことも知ることができます。当方は2人居た叔父の1人が、いまだにシベリアから帰還していないので、特に捕虜や囚人まで含めた監禁されている立場の当時の人達の状況に、どうしても他人事になれず気持ちが寄ってしまいます・・スミマセン

※いずれも、Wolfgang Mühlfriedel (ヴォルフガング・ムーフリーデル)、Edith Hellmuth (イーディス・ヘルミュート) 共著「Carl Zeiss Jena 1945 – 1990」より

error: Content is protected !!